
私はこの10年で3度この地を訪れていますが、その度に新しい建物が建築されていたかと思うと、古い建物が静かに姿を消すという事が日常的に行われ、街の景観の新陳代謝が世界で一番激しい都市と言えると思います。そんな都市で現在もどっしりと構えている歴史的な近代建築を幾つか挙げたいと思います。
日本水準原点標庫
この建物は、日本人建築家による初めての作品です。初めてらしく大変小さな建物で、初々しい感じがします。今でも永田町の「国会前庭北地区洋式庭園」の一角にひっそりと建ってます。設計者の佐立七次郎(1856〜1922)は、英国の若き建築家、ジョサイア・コンドルが教鞭をとった、工部大学校(現・東京大学)建築学科の第一期卒業生です。同級生は辰野金吾、片山東熊、曾禰達蔵という面々で、彼らは後に「日本の建築界の父」と呼ばれた人達です。その中で佐立は、一番最初に設計、建築に辿り着きました。しかしその後の佐立は、あまりパッとしなかったようで、先に挙げた同級生達が大規模な建物を次々に設計していく中、彼は取り残されていきました。競馬に例えるならば、2才のG1はぶっちぎりで勝利したけど、日本ダービーには枠にも入れなかった。といった所でしょうか。
建物本体は三角ペディメントにニ本のオーダーで構成されていて、教科書通りの様式作品です。
この建物は日本の標高の原点標を保護するのが目的のものです。この建物の中に鎮座する「水準原点標」の位置は、海抜24メートル41センチ4ミリで、ここから全国各地の海抜を測定します。建設当初は24.5メートルの設定だったのですが、関東大震災により、低くなってしまいこの高さになったそうです。それにしても中途半端な高さです。
竣工 明治24年所在地 東京都千代田区永田町1-1国会前庭北地区洋式庭園内 設計 佐立七次郎 施工 清水組 構造 石造平屋建 建築面積 14.93平方メートル
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軍人会館:現、九段会館
地下鉄「九段下」駅を降りてすぐに見える、空に向って真直ぐ伸びるシルエットと城のような屋根が印象的なこの建物。昭和9年に開館し、予備役の軍人の教育、訓練の場としての施設として利用され、昭和11年2月26日に発生した「2.26事件」の戒厳指令部がここに置かれました。
戦後すぐに連合軍に接収され、10年以上連合軍の宿泊施設として使用され、その後に九段会館と名前を変え、施設の利用用途も「婚礼、宴会、コンサートホール、宿泊」と戦前とは全く違う用途になりました。
最近では椎名林檎のコンサートも開かれました。
建物本体はスクラッチタイルを多用し、垂直に伸びた窓、むきだしになった柱、梁などはインターナショナルスタイルの典型建築ですが、屋根を覆う反り屋根がこの建物の印象を深くすると共に、運命を左右しました。
この建物のようなスタイルを折衷建築とは呼ばず、「帝冠様式」と称して戦後は日本の国粋主義の象徴だという事で、紛糾されたりもしました。
現在では近代建築として見られるこの建物はDOCOMOMO日本での100選には認定されませんでした。近代の日本が生んだ歴史様式建築だという事が理由だそうです。
私はこの建物は歴史認識やその背景がどうであっても共に美しい建物であり、このスタイルは日本でしか見れない独自の近代建築だと思っています。
竣工 昭和9年 所在地 東京都千代田区九段南1-6-5設計 川元良一 施工 清水組 構造 鉄筋コンクリート4階、地下1階建、瓦屋根 延床面積 14,423平方メートル ![]()
靖国神社「遊就館」
先の軍人会館から目と鼻の先の場所にある「靖国神社」内にあるこの施設。この建物はニ代目の遊就館で、初代は明治14年、イタリア人建築家カペレッティによる設計のものでヨーロッパの古城のような建物だったそうですが、大正12年の関東大震災で倒壊してしまい、昭和6年この二代目が竣工しました。
この建物は軍事博物館として建設されました。建設当時は日本は軍事大国に邁進中で、それまでの戦いの栄光を華々しくこの施設で展示、公開していたようです。
それらの戦いで散っていった戦士たちの御霊に詣った後にこの施設に来るというのが極日常的なことであったのでしょう。
最近この建物は改修がなされ、綺麗に化粧が施され、開館当初の美しさと取り戻しました。展示内容は戦前とはかなり違いますが、先の大戦を知らない私にも日本の歴史を実際に見て、感じる施設としてはとても重要なものだと思います。
勿論、ここを訪れる前には本殿で散っていた英霊達に頭を垂れるのが、極自然な行為です。
竣工 昭和6年 所在地 東京都千代田区九段北3-1設計 伊東忠太、内藤太郎、柳井平八 施工 銭高組 構造 鉄筋コンクリート造2階建 ![]()
日本における西洋近代建築の横綱のこの建物煉瓦と御影石を交互に組み合わせ独自の意匠を生み出した「辰野式」と呼ばれるこのスタイル。
辰野建築ではほとんどのものでこの様式が見られますが、この建物の意匠はオランダのアムステルダム中央駅を模したものとされていますが、煉瓦と御影石を使って全体の意匠を組み立てるという部分だけであって、細かい組み方には相違が見られます。
この建物が建設された当時は皇室、特に天皇陛下におかれては皇居からすぐの距離にあり、お召し列車の乗降に利用する駅舎としての役目が重要なもので、中央口は現在でもそうですが一般人は利用する事が出来ません。
建物本体は明治41年に着工し、大正3年に竣工という事ですから、約7年の月日が費やされました。
加えて、延べ74万の職人、270万円の総工費が投入されました。予算に関しては、本来はこの六分の一だったのですが、日露戦争勝利の好景気だったため、このビッグプロジェクトには、派手に予算が加算され、その結果できたのは、高さ46メートル、長さ335メートルの巨大駅舎でした。
駅がこのように豪華な造りになったのは、首都「大東京」の基幹駅であった事と、先に挙げた事情があっての事だと思います。そんな「東京の顔」を長らく続けてきたこの駅舎ですが、時代が進むに連れ、だんだん顔が効かなくなってきたようです。その事を重く見たかどうかは分かりませんが、東京駅の威厳復興プロジェクトが立ちあがり、平成22年度までに、創建当時のドーム付き3階駅舎に復元するそうです。
竣工 大正3年、昭和22年(復旧) 所在地 東京都千代田区丸の内1-1-3設計 辰野金吾/葛西萬司設計事務所 施工 大林組、大倉土木 構造 鉄骨煉瓦造2階、一部3階、地下1階建 建築面積 7,821.31平方メートル 延床面積 23,897平方メートル ![]()
築地本願寺
銀座を南に下り、東京中央卸売築地市場の手前に現われる、従来の日本建築ではない寺院。この建物の施主である大谷光瑞は浄土宗大谷派22代宗主で、関西では現在の神戸市東灘区の山の上に「ニ楽荘」というアジアの建築様式をいいとこどりした建物をこの築地本願寺の設計者に依頼していました。
大谷はこの建物の設計者、伊東忠太とは、互いがアジアを探検している時に偶然に出会い、意気投合して帰国後は施主と設計者という関係を続けました。
この建物はその関係でできた最後の作品です。
一般的にはこの寺院はインドの寺院建築だという見解がありますが、実際にこのような建物はインドには存在せず、忠太がインドを旅した時に「これがインドの仏教建築だ」と感じた2つのポイントが折り込まれたオリジナル建築です。
1つは屋根の両側に乗る塔がインドのストゥーパを模したもの。
もう1つは正面車寄せ部の上方の屋根に付くアーチ、これはインドの仏教施設の窓や入口によく見られる物を模したもの。
これらを織りまぜた上で彼オリジナルのインド寺院が日本に完成しました。
竣工 昭和9年 所在地 東京都中央区築地3-15設計 伊東忠太 施工 松井組 構造 鉄筋コンクリート造、平屋、地下一階建 延床面積 6,471平方メートル ![]()
東京都復興記念館
この建物は、先の築地本願寺を設計した伊東忠太の作品なのですが、築地本願寺があまりにも個性的であり、作者の思いと芸術性が十二分に発揮されたものだけに、同時代の作品にしてはこちらの建物は、あまり彼らしさというのは表現されていない地味なものという印象が2つの作品を比較してみると、そう思わざるを得ません。建物本体は、関東大震災の時、この敷地にあった陸軍被服廠には多数の人が家財道具を持って避難に駆け込んだその時、四方より大旋風となった火炎が包み、一瞬にして約3万8千人もの人々がこの場所で命をおとしました。この大惨事の被害者の遺骨を納骨し御霊をなぐさめる為の施設「震災記念堂」と対になるかたちで昭和6年に増設されたものです。(下写真、震災記念堂内部)
内部には関東大震災での被害を伝える写真や資料が展示されています。私が訪れた時には、観覧者はポツポツだったのですが、普段は小学校などの社会見学等で利用されているのだろうと思います。そうでなければ、発生から80年以上たった関東大震災の記憶風化の加速度は一気に高まると思います。
現在この2つの建物も含めた「横綱町公園」として地域の憩いの場となっています。
先ほど建物自体は忠太建築にしては地味だと書きましたが彼のもう一つの特徴である、「空想動物の石像」はこの建物でも配置されています。
この建物も先に挙げた「軍人会館」同様、洋風の建物本体に反り屋根を乗せた「帝冠様式」の建物です。こちらも強いられる形でこの反り屋根を乗せるという経緯があったようですが、今見つめてみると、いいプロポーションをしていると思います。ただ個人的に忠太ファンである私としては、制約無しで設計できたのなら忠太はどのような屋根を乗っけていたのかという興味は絶えません。
竣工 昭和6年 所在地 東京都墨田区横網2設計 伊東忠太、佐野利器 施工 戸田組 構造 鉄筋コンクリート造2階建 延床面積 1,777平方メートル ![]()
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〒東京中央郵便局
この建物は先の東京駅のすぐ前に建っていて、東京駅とは全く違う意匠ですが、これも丸の内のランドマークとして存在感を十二分に発揮しています。建物本体は「京都でエース登板」のページでも紹介した、逓信省のエース吉田鉄郎の代表作とされています。同じ中央郵便局で、大阪駅前に建つ「大阪中央郵便局」(下写真)も彼の作品です。
〒大阪中央郵便局
竣工 1939年 設計 逓信省営繕課:吉田鉄郎 施工 清水組 ※DOCOMOMO 選定 No 028
どちらにも見られる特徴ですが、柱と梁をむき出しにしたスタイルは彼の建築の新骨頂で当時としては斬新な意匠で話題をさらいました。そのことはどちらの建物もDOCOMOMOに選定されていることでも立証されています。ちなみに上の大阪中央郵便局は設計当初、外壁は白壁になる予定でしたが、当時の日本は戦時下であったことから、黒っぽい地味な外壁に変更がなされたそうです。それと共に特徴的なのは、下層階部の窓は高く造られ、上に上がるほど窓が低くなっていくのも、意匠的にも面白いものとなっていますが、お客さんが多数集まる一階部に光を大量に吸収する為の工夫の末こういう意匠になったそうです。
かつてはこの建物共に並んでいた、海上ビル、郵船ビル、駅前の「丸ビル」、「国鉄本社ビル」は高さ31メートルに統一されていて、美しい景観を保っていましたが、再開発の嵐がこの丸の内にも襲い、この建物以外は姿を消し、31メートルの何倍も高い高層ビルに建て替えられました。もちろん、この建物も丸の内再開発の狭間にたち、いつ解体、建て替えが行われてもおかしくない状況におかれています。私が思うに、将来、郵政事業が完全に民営化された時に、その象徴として建て替えられるのでしょう。
現在ではそんな寂しく切ない背景を抱えているこの建物ですが、完成当初は、京都の桂離宮の日本的な美しさを世界に知らしめたドイツ人建築家ブルーノ・タウトはこの建物を絶賛し、同じく来日していたチェコ人建築家アントニン・レーモンドは日本的解釈による現代建築がこの建物によって始まったと、アメリカにいる友人に一刻も早く伝えたかったそうです。今ならメールで数秒で伝わるものが当時は最も速い方法を使っても幾日もかかったのでしょう、その友人からのリアクションを幾日も子供がクリスマスを待つようにワクワクして待っていたのでしょう。
竣工 昭和6年 所在地 東京都千代田区丸の内2-7-2設計 逓信省経理局営繕課:吉田鉄郎 施工 銭高組、大倉土木 構造 鉄筋鉄骨コンクリート造5階、地下1階建 延床面積 36,479平方メートル ※DOCOMOMO選定 No 011 ![]()
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