
そごう大阪店
そごうは江戸期に坐摩神社前で古着商として開業したのが始めとされ、明治に入って呉服屋に転業し、同10年、心斎橋筋1丁目鰻谷角に移転。同27年から現在の場所での営業を開始し、大正8年からは名称が「十合呉服店」から「そごう」になりました。しかし残念ながら、平成12年(1999)そごうグループの破たんにより大阪店は閉店となり、現在では主を失った建物です。予定では平成15年3月から解体が開始されるとのことです。
この建物が完成した昭和10年は御堂筋が今の広さに拡張されたばかりで、それにあわせてこの通りには、昭和7年の大丸心斎橋本店、昭和8年の大阪瓦斯ビル同じく昭和8年の南海ビル(高島屋大阪店)といった歴史的な建物が姿をあらわしました。
この建物の設計者であった村野は隣の大丸を意識し、「大衆にアピールするもの」は何かないだろうかと思案した彼は当時のラジオの横縞模様をヒントに縦じまにルーバーを配置することを全体のシルエットとして考え出しました。ルーバーから500ミリセットバックした位置に日本では始めてガラスブロックをはめ込みました。その後の村野建築にガラスブロックが多用されたことを考えると、彼にとってもエポックメークな作品だといえると思います。縦に走ったルーバーと背後のガラスブロックのテクスチャーのコントラスト効果が見事に表現された作品だといえます。建物の右側の窓にはロダンの弟子兼助手であった二科会、藤川勇造の「飛躍」(下写真)という彫刻作品を設置し、
中央の垂直壁も中央から少しずらしているところが、シンメトリー(左右対称)が象徴であった歴史様式建築からの脱皮であるモダン建築の特徴的なものとなり、孤高のモダンアーキテクチャーといわれた村野の代表作といえると思います。完成した新館そごうは昭和10年10月1日にグランドオープンとなりました。
当時のフロアーガイドを抜粋すると
9F・そごうパーク 8F・事務所 7F・書籍、文具・演芸場、食堂、喫茶 6F・専門店、催事場・特別洋食堂、宴会場 5F・美術品、貴金属・画廊、茶室 4F・洋反物、寝具・医務室、休憩所 3F・進物相談、生地染物・美粧室、写真室 2F・紳士、子供、婦人服・来賓室、そごうパーラー 1F ・紳士雑貨、化粧品・自動車専用入口
このフロアーガイドからは1階の売り場が化粧品と紳士雑貨というのは今でも変わらないのが見て取れます。6階、7階の食堂はそごうに限らず、他のデパートでも上層部に食堂を配置するのは定番で、昼間に訪れる子供連れ婦人のお客さんをまず上層部に押し上げて、食後にエスカレーターで下りながら各階で買い物を楽しんでもらう、シャワー効果という百貨店業界では常套手段として活用されていました。ただ昨今では地下の食品売り場から押し上げて行く逆シャワー効果というのが主流になりつつあるそうです。2階の洋服売り場に目をやると、当時はブランドのショップがテナントで入るということがなかったらしく、婦人、紳士服のフロアーがワンフロアーで収まってますね。
6階の特別洋食堂にはイタリア人女性シェフが腕を振るっていて、店内には藤田嗣治の壁画「春」が飾られていました。3階の「写真スタジオ」はアメリカ帰りの気鋭の女性写真家山沢栄子が開いたものでした。2階の貴賓室の扉には奥村霞城の蒔絵、1階エレベーターの扉には島野三秋の漆装飾で飾り立てられていました。昭和モダンの先端を進もうとしていた「そごう」の心意気が感じ取れます。
現在この大阪店が閉店し、内部に入れなくなったのは残念なことですが、この何年か、余りにも外見がくすんで見えたのは私だけではないと思います。個性的なデザインで特種資材を用いた建物、それに加えて白い建物なので少しでも汚れたり、くすんだりすると建築家の意図したものと懸け離れて行くと思います。(事実、村野自身昭和50年ごろに「そろそろ改装の時期ですね」と講演で語っていました。)
この建物のかつての主がそのあたりの意図を汲んで、定期的な修復をくれていたらなあと今さらながらに思います。
ちなみに設計者村野籐吾が設立した「村野.森建築事務所」は、そごうと心斎橋ロフトの間の筋を東に入った所に現在もあります。
そごう大阪店
竣工 昭和10年(1935) 所在地 大阪市南区(現 中央区)心斎橋1-8 設計 村野籐吾/村野建築事務所 施工 大倉土木

上の写真左は完成当初昭和10年完成当初のもの、右の平成13年のものはルーバーとルーバーの間にガラスブロック落下防止のためなのか、金属メッシュが張られています。これも完成当初のころにはなく、結果的には全体のデザインと、本文にも挙げたルーバーとガラスブロックが織り成すテクスチャーのコントラスト効果を損ねられ、このことがオープン時との印象をまったくかえてしまったと思います。
〜追記〜
ここで紹介した「そごう大阪店」の建物は2003年に解体。同場所に「新生そごう」の象徴として、14階建ての真新しい建物が建設され、2005年9月7日「そごう心斎橋本店」として、グランドオープンの運びとなりました。同時に本社も横浜からこの地に戻ります。再オープンのキャッチコピーは、昭和10年の開店時に使用された「〜お遊びに、御買い物に〜」を引っ張り出してきました。営業コンセプトは上写真の建物がオープンした昭和10年頃のモダンな大阪への回帰です。テレビCMには当時流行したモダンで奇抜なデザインの着物をまとった宮沢りえを起用し、CMの放映回数ならびに各マスコミへの露出から、新生そごうの意気込みが感じ取られます。
私自身、この年代の世相、風俗に以前から大変興味があるので、オープン後の営業展開が楽しみなのですが、完成した建物はそのコンセプトとは全く縁遠いつまらないものとなったので、このページには掲載しません。村野版のそごうが完成した当時の心斎橋界隈に与えたインパクトを今回のオープンで我々が感じることは出来ないと思います。
ちなみに先に挙げた藤川勇造の「飛翔」は屋上庭園に、島野三秋の漆塗りのエレベーター蒔絵は7階のロイヤルサロンに展示されることになりました。破たんした「そごう」ですが、これらは売らずに保管していたようです。でも藤田嗣治の「春」は何処に行ったのでしょう?
(2005年8月吉日)
関西大学
現在では、吹田市千里山と高槻市阿武山に広大なキャンパスを構える、老舗私立大学「関西大学」ですが、ここで紹介する第一学舎、蘭文館(旧 図書館)は、1955年に関西大学が創立70周年記念として千里山に本格移転増築の時に竣工したもので、共に村野の設計作品となっており、この本格移転のマスタープラン自体も村野提案がベースとなっています。後の1964年には、円神館(旧 専門図書館)が増設されました。大学建築というのは、建築規模が大きいだけに大変見ごたえがあります。関西学院大学(兵庫県西宮市)神戸女学院(兵庫県神戸市)はW.ヴォーリス。京都大学(京都市左京区)は武田五一、森田慶一というように老舗有名大学の主要建物の設計には、各時代の有名建築家が携わることが多く、建物の数、建物の大きさから考えて、それらの建築家の意匠センスと設計力が存分に発揮された博物館とも言えると思います。この関西大学も「村野藤吾ミュージアム」といったところでしょうか。
下の3枚の写真中央の第一学舎は、彼の初期の作品「森五ビル」(1931年、東京都中央区日本橋室町4-5)のような前期モダンスタイルの建物です。45年以上たった建物ですが、意匠に時代遅れな印象が感じられません。この第一学舎は凝った意匠というよりも、利便性に優れた建物で、ほぼ一辺が100メートルの3つの建物がコの字型に配置されているのですが、各自がうまく連絡されており、生徒にとっても一度この校舎に入ると、雨に濡れることもなく次から次へと無駄なく教室の移動が出来ます。加えて、バリアフリーがほとんど建築に考慮されていなかった昭和30年代にスロープを随所に設けた設計も施されています。(下写真左)下写真右も第一学舎の建物の一部ですが、教室の窓を覆うシェードの配置の仕方が特徴的なものです。
竣工 昭和30年(1955)[第一学舎、蘭文館] 昭和39年(1964)[円神館]
所在地 大阪府吹田市千里山東3-3-35
設計 村野藤吾/村野,森建築事務所 施工 竹中工務店
構造 鉄筋鉄骨コンクリート
延床面積 2184平方メートル(円神館) 1270平方メートル(蘭文館) 3038平方メートル(第一学舎)
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下写真の蘭文館は、円形の建物にモザイクを配した装飾、建物上層部の楕円形のホールが簡単な装飾ですが建物のアクセントにもなっています。彼の建築のテーマでもあった、建物のエッジをどう丸く見せるかということについての解決法の一つでしょう。
ちなみにこの蘭文館の建つ場所はかつて関西大学の本館の建物があった場所で、その本館は明治41年に北浜に完成した住友本館の建物を昭和2年に移築したものでした。
この建物を下ったところに「関西大学総合図書館」完成した後は、「関西大学博物館」として第二の人生を歩んでいます。この建物がその役目を担うことになったのは関西大学の歴史を語るのには、うってつけの選択だと思います。
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円神館は、円形の建物を幾本ものエンタシスで支え、その空洞になったスペースに懸垂構造のガラスで覆われた立方体の箱を幾つも埋め込んだユニークな構造になっています。エンタシス=様式建築、立方体のガラス張りの箱=モダン建築。このことからも現代と古典の融合建築ですが、それだけでは村野建築は終わりません。エンタシスというシルエットだけを引用し、ガラス張りの箱もこの時代の他の建築家なら表にドーッと出すであろうものを敢えて内部に収納してしまう。こういうことから、私個人の感想としては、この作品は20世紀建築、村野建築の代表するものだと思います。
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梅田阪急百貨店南側に高々とそびえ、一瞬何かの記念碑もしくはオブジェと勘違いしてしまう作品ですが、名前の通り梅田の地下街の換気をコントールする換気施設です。村野の残した設計図からは、この換気塔は音響実験機より発想したとされ。具体的には音叉からの発想ではないかと考えられています。
換気塔本体は風雨にさらされてもさびないように素材にはステンレスを採用しました。このことから実務的な換気塔ではなく未来永劫この地のモニュメントとして使用しようとする意図が見えます。
ちなみに夜はライトアップされて幻想的な雰囲気に磨きが掛かります。
竣工 昭和38年(1963) 所在地 大阪市北区曾根崎2設計 村野籐吾/村野.森建築事務所
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この建物は村野がまだ渡辺節建築事務所の所員だった頃にアルバイトで設計したもので、実質的には彼のデビュー作になります。建物はシンプルですが、この塔の中心を走る幾何学模様だけで十分存在感を示しているものだと思います。昭和57年になり、建物の老朽化が問題化し、解体の危機に瀕した時、改装設計に立ち上がったのは91才を迎えた村野藤吾でした、会堂は改築されましたが、写真にある塔屋は保全再生されました。村野籐吾にとってはデビュー作にして最晩年に関わった作品です。90才を過ぎても精力的に活動し続けた彼のバイタリティーとエネルギーには建築に携わらない者にとっても尊敬の一言では済まない感情を憶えます。
竣工 昭和3年(1928)、昭和57年(1982)[改築] 所在地 大阪市阿倍野区阪南町1設計 村野籐吾 施工 岡本工務店 構造 鉄筋コンクリート造 ![]()
新歌舞伎座
当時日本でのモダンアーキテクチャーの名を欲しいままにしていた村野には珍しい和風な建物です。一見何処かの城をモチーフにし似たような建物意匠ですが、全国どこをさがしてもこのような日本建築は存在しません。
建物の見た目の印象のほとんどを占めている四層に重なる連続した波形の唐破風ですが、唐破風自体は、日本建築の様式では寺院の門や家屋の玄関、屋根周りに単体で用いられますが、このように連続して使用される事は、日本の建築史上なかった事です。和風建築であっても、他人がしていない事、思い付かないような事を建築に取り入れているところは、村野建築の真骨頂だといえると思います。
竣工 昭和33年 所在地 大阪市中央区難波4-3-25設計 村野、森建築事務所 施工 大林組 構造 鉄筋コンクリート造5階、地下2階 ![]()
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