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戦時下の大阪城周辺

 

 

 

  

 




大阪砲兵工廠

 




今でこそ、大阪城、大阪城公園を中心としたエリアは観光客も多く集まる、大阪市内では珍しく緑の多い景勝地となっていますが、かつては、現在の大阪ビジネスパーク、大阪城公園の一部分、森ノ宮の列車車両基地の辺りは大阪砲兵工廠という軍需工場でした。その中枢施設、砲兵工廠本館は、現在の大阪城ホールの場所に昭和56年まで残っていました。

戦時中から走っていた国鉄城東線(現大阪環状線)は、この辺りを高架ではなく地上運転で、工廠沿いの両側に立つ高いコンクリートの壁が景色を消していました。この壁は軍事機密漏えい防止の為のものでした。現在、京橋と森ノ宮の間に大阪城公園という駅がありますが、この駅は、まさに砲兵工廠のど真ん中だったのです。ちなみにこの区間は現在でも高架ではなく地上運転です。(高い壁は撤去されましたが)そんなところにも戦時下の爪跡が残っているのですね。


終戦前日の昭和20年8月14日午後1時頃、米軍は日本対する最終爆撃として、この砲兵工廠をターゲットに決定し、サイパンからB29を161機発信させ、500キロ、1トン爆弾をばらまき、数百人とも数千人ともいわれる人達が犠牲になりました。

皮肉なことに、この攻撃の1時間前の正午、東京では御前会議でポツダム宣言受諾が正式に決定していました。


この工場自体はとにかく広く(約37万坪)、先ほど書いたエリア総てが工場だったということで、私もこのエリアの端から端(JR森ノ宮駅から大阪ビジネスパークを経由してJR京橋駅)まで歩いたことがありますが30分ぐらいはかかりました。

今では、近代史の書物や戦火をくぐった人達に話を聞かない限りこの地、特に大阪ビジネスパーク周辺にそのような施設があったことはほとんど分からなくなっています。

下の写真は、唯一残る砲兵工廠の関連施設、旧大阪砲兵工廠化学分析所です。建物本体の様式は装飾を極力排したネオルネッサンス様式です。

この施設では戦時中、新しい兵器の開発、研究、化学実験が行われていました。戦後昭和39年から平成10年までは自衛隊大阪地方連絡部として使用されていました。日本政府の解釈上、軍隊ではないとされている自衛隊が旧日本陸軍の施設を使用していたのは、一方では極自然な様で、一方では何だか矛盾したような複雑な感じがしますね。

右写真にも写っていますが、現在では主とした主もなく、建物正面は駐車場にも使用されており、建物を囲むように鉄柵がはり巡らされています。今後この施設をどのようにしていくのかは今の段階では不明ですが、この状態を見ていると保存する気はないのではないかと思われ、いつの間にか解体されてしまうような気がします

 


左写真後方に写るのは
大阪城(世界遺産登録予定)です。

竣工 大正8年(1919) 所在地 大阪市東区(現 中央区)大阪城3

設計 大阪砲兵工廠、置塩章 施工 大阪橋本組

構造 煉瓦造り2階、地下1階

 


 

 

 

 




陸軍第四師団司令部

 




大阪城天守閣の同じ敷地内には旧陸軍第四師団司令本部の建物があり、平成13年春までは大阪市立博物館として使用されていました。


昭和6年当時、大阪城内に分散していた師団の庁舎を集約するためとしてこの建物が建てらました。昭和15年には中部軍管区司令部庁舎となり、戦後は米軍、昭和28年大阪市に無償譲渡された後は、大阪市警、大阪府警、として使用され、昭和35年からは大阪市立博物館となり、平成13年3月まで使用されましたが、閉館となりました。

軍施設として使用されていた時期は軍関係者しか入れず、関西地区の陸軍の最前線本部だったこの施設も最近までは文化施設として市民や観光客に開放されていたのには皮肉めいたものも感じます。

建物自体は、幅95メートル高さ21メートルの当時ではかなりのスケールの大きい建物です。建物上部にロンバルディアバンドを配したヨーロッパの城郭建築風です。ほぼ同時期に再建された純和風の大阪城とのスタイルコントラストを意識してこのようなヨーロピアンデザインになったといわれています。

しかしこの建物が建つ前、大阪市は第四師団に対して「大阪城との調和を考えて純和風のデザインにして欲しい」との要請をしたそうですが、完成したのは何処から見ても和風には全く見えないこの建物となりました。完成したものを見て市職員たちは「大和魂が売りの軍隊が何で敵国になりうる外国の建物の模倣品やねん」と密かに突っ込んだ事でしょう。

大阪城と難波宮跡が世界遺産に登録されるということですが、よくよくこの天守閣の雰囲気を考えると、面白いことかもしれません、それはこの建物の世界的遺産価値というよりも、同じ敷地内にヨーロッパ風城郭建築と日本の桃山時代の城郭建築が鎮座しているのは、世界中どこを探してもここしかないでしょうから。

大阪城は、昭和天皇御大典記念の一環として266年振りに再建される大阪城再建事業としての市民の寄付金によって建てられました。しかし正確には、陸軍が集まった寄付金150万円のうちの80万円を当時城趾にはり巡らされた師団庁舎の立退料として確保して、この建物の建築、移築費に使いました。このページ最初の写真「大阪城」より予算の掛かった建物でした。(大阪城天守閣には47万円費やされました)

寄付した市民の中には「師団庁舎の為に寄付したんちゃうで」愚痴っていた人もいたことでしょう。

ちなみにこの寄付での筆頭大口寄付者は、住友吉左衛門でした。(25万円也)2番手は三菱財閥の岩崎小弥太の5万円也。筆頭小口寄付者は町の子供達。金額はおやつの小遣いを貯めた10銭です。

 


陸軍第四師団司令本部

竣工 昭和6年(1931) 所在地 大阪市東区(現 中央区)大阪城1-1

設計 陸軍第四師団経理部 施工 清水組 

構造 鉄筋コンクリート3階、地下1階

 


 

 

 


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