「ニ楽荘」忠太のの建物

 

 

 


そもそもこの施設は浄土宗本願寺派第22代宗主大谷光瑞の邸宅として建てられました。

当時の兵庫県武庫郡本山村から「岡本山」を15万円(現在のレートで約2億円)で買い上げ、建設費に17万円費やし、その1年半後の明治42年9月に本館が完成しました。

設計に顧問として参加した忠太は完成したニ楽荘を見て、「本邦無二の珍建物」と評したそうです。

敷地面積24万6000坪を階段状に削り出しその平地部に私塾、武庫中学とその 関連施設が増設され、学校の各施設を結ぶのに3本のケーブルカーが設置されました。

本館の建物自外観はインドのタージ・マハールを模したものとされますが、その内部はインド室、アラビア室、英国風の大部屋と世界各国のいいとこ取りをしたような室内構成になっています。

この本館の基礎部材は神戸沖に沈んだイギリス船の部材を使ったそうで、今でいうリサイクル建物ですね。

この建物に、光瑞の大谷探検隊に感心を寄せていた、大阪毎日新聞が注目し独占一般公開の許可を取りつけ、大正元年11月2日、3日両日の開催と決まり、公開直前の10月末には「光瑞法王とニ楽荘」という連載記事を掲載して読者にPRした上で毎日新聞購読者に限って招待しました。

大阪毎日新聞は当時からライバルであった大阪朝日新聞に購読者獲得の勝負かける意味でかなり力が入っていたようです。

そのイベントのふたを開けてみると、公開初日から8000人2日目は23000人を超す来場者で賑わい、中には入場制限にかかり断られる人までで現われ、一般公開は大盛況に終わりました。

その後も光瑞は50の入場料をとって公開を継続しました。

その一方で光瑞は、武庫中学という仏教学校の運営に奮闘し、自ら校長と教師を兼ねて生徒と接し将来の良き仏教人の育成に努めました。

しかしその後、大谷探検隊の出費がかさみ大谷家本体の負債が膨れるとともに、本願寺の疑獄事件が起こり、光瑞は宗主を辞任し、ついに大正3年には武庫中学もニ楽荘も閉鎖となりました。その後、大阪の富豪にこの施設、探検隊で集めたコレクションを含めて売却されました。しかしこの富豪もニ楽荘をほったらかしにしたため、どんどん荒廃していき、昭和7年10月、放火とみられる不審火によってニ楽荘は、跡形も無く消滅しました。

 

いまではこの施設があったということ自体知る人もほとんどいませんが、現在の阪急神戸線岡本駅の西側の山の中腹がニ楽荘のあった場所です。私も確認してみましたが場所の特定は不可能でした。


  

         アラビア室の内部

 

 

 

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