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 「御買ひ物は三越へ」




 

 

 





越百貨店の前身、三井呉服店は1691年高麗橋で営業を開始しました。その当時から誰もが気軽に現金で商品が購入できるよう店頭での安売り商法と、それまでは店が客次第で値段を決める掛け値商法を撤廃し、今で言う定価販売を世界で初めて実施しました。その後店内に呉服以外の店鋪も軒を列ねたことで多数の客を集めていました。


明治以後の一時閉店を挟んで、明治37年、三井呉服店から三越呉服店大阪店となり、大正6年現在の地に移転し開業しました。

大正10年には女子店員に事務服を制定、大正15年には当時は画期的であった「土足入場」を大丸百貨店と同時期に実施し、客が気軽に入れる店鋪に変化させ、呉服店から百貨店への業態移行が完了しました。この時期は他の呉服店も様々な工夫とアイデアで百貨店へと移行していきました。(十合呉服店→そごう、京都たかしまや呉服店→高島屋)

大正14年には、この建物の屋上から関西で始めてのラジオ放送が発信されました。そのとき三越は放送局から賃料を取らない代わりに、放送しているブース内部が、百貨店に来るお客さんにも見えるように小窓が作られました。現在のラジオ放送のサテライトスタジオの方式を大正時代に採用した事になります。しかしこの事にはラジオにゲストに来る当時の学者、識者には抵抗があった様で、建築家で京都大学の教授であった武田五一(1892-1938)は「私は見せ物では無い」と見物客を一喝して、放送前に帰ったという逸話もあります。


この建物は東京日本橋の三越本店(下写真)を手掛けた
横河民輔(1864-1945)の作品で、建築様式のカテゴリーではイギリス派様式に分類されます。横河は建築家であると同時に事業家の顔も持っていたので、出店に関しての商業形式の研究、導入の段階から参加しました。現代風にいえば店鋪設計兼経営コンサルタントというところでしょうか。彼の事業家としての実績は後の横河電機、横河橋梁などの企業に残されています。



この完成した三越の7,8階にある食堂は、三越に来店する婦人、子供を各階店鋪から食堂まで導こうという目標があったので、とくに子供に趣を置き、そこから
お子さまランチも登場しました。

ここで働く給仕は、店内がいくら客で込んでいても、いちいちテーブルまで赴き、勘定を受け取り、釣り銭を返しに来ていたそうです。このことはチケット制を導入していた阪急百貨店に比べて効率は悪いですが、こういうところにも三越の高級イメージを誇示しているようにも思えます。

そのブランド力の影響か、この食堂では見合いがよく行われていた様で、そのことに三越もいち早く反応し、直営の見合い申込所を設け、世間には「三越の食堂で見合いすると縁談がまとまる」「夫婦仲が良くなる」といったキャッチコピーで宣伝したそうです。

当時大阪で賑やかだったのはこの三越のある堺筋で、大阪で初のプラタナスの街路樹を備えたこの通りには、4つのデパート(松坂屋、白木屋[現 ,東急]、三越、高島屋)がありました。しかし昭和に入り御堂筋の拡張が完了し、完成したばかりのそごう、大丸がある心斎橋界隈をぶらぶらする「心ブラ族」が時の流行になるとともに、通りの繁栄は一気に心斎橋、御堂筋界隈に奪われました。


残念ながら、この建物は平成7年阪神大震災で倒壊してしまい、現在は同じ場所で新しくなった店鋪で営業しています。その新店鋪は三越の高級イメージとはまったく違うチープなデザインの店鋪です。(下写真)この店鋪も平成17年春の閉鎖、JR大阪駅北口への移転が決定しています。


 


三越百貨店大阪店


竣工 第一期 大正6年(1917) 第二期 大正9年(1920) 第三期 昭和8年(1933) 

所在地 大阪市東区(現 中央区)高麗橋1-7 設計 横河民輔 

施工 横河工務店(第一期) 竹中工務店(第二期) 銭高組(第三期)

構造 鉄筋鉄骨コンクリート造8階

 

 


 

 

 


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