「お邪魔いたします」




かつての財産家達は、現在のように邸宅にかかる土地の値段の比率が高くなかったので、広大な敷地を確保した上で、自邸や別邸に莫大な資本を注ぎ込んだようです。

そんな邸宅達も多くは、様々な事情で解体されましたが、運良く残った建物達は、主が変わって住み続けられているか、別業態に引き継がれ、それぞれ第二の人生を歩んでいます。

邸宅として使用されていた時代に私が生きていたら、屋敷の中に入るどころか、お付き合いする事も出来なかったような方々のお宅にお邪魔したいと思います。手ブラで失礼します。





加賀正太郎別邸:現、アサヒビール大山崎山荘美術館




秀吉、光秀の山崎の合戦でも知られるこの山崎の地に別邸を建てたのは、後にニッカウイスキーの創始者のひとりとなる、実業家、加賀正太郎氏(1888-1954)で、眼下に木津、桂、宇治の三つの川合流する壮大な風景が見渡せるこの地に、氏が以前遊学した英国のスタイルの山荘を自ら設計し、延べ20年の歳月をかけてこの建物を完成させました。

竣工後は、氏と付き合いのある著名人が数多く訪れたそうです。

しかし加賀氏の死後は次々とオーナーが変わり、ついには主を失ったこの建物は、荒廃が進み、平成に入ると解体されるという状況になりましたが、そこにアサヒビールが京都府からの要請を受けて買い取り、アサヒビールの初代社長の山本コレクションを展示する美術館として見事生まれ変わりました。その改修では、安藤忠雄設計、モネの「睡蓮」などを展示する地中展示室を増設しました。その名は「地中の宝石箱」です。

ただ山本コレクションはバーナード・リーチや濱田庄司、などの陶芸作品がほとんどで、一言で言えば、数寄者のコレクションです。ただこの建物の展示物としては大変調和がとれたものだと、陶芸に関しては全く無知な私はそう思いました。陶芸が好きな人にとっては最高のコレクションを抜群のロケーションに建つ素敵な建物で見れるので、至福の時だと思います。

事実私が訪れた時も何人かの人が作品にしばらく見入っていました。


竣工
 昭和7年、平成8年(改修、増築) 所在地 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原5-3

設計 加賀正太郎、安藤忠雄(増築新館) 施工 不祥

構造 木造、鉄筋コンクリート造2階建

※休館、月曜日(祝日は翌火曜日)年末年始、臨時休館日、






高嶋平介邸現、甲南漬資料館




次のお宅は奈良漬「甲南漬」の高嶋商店の店主、高嶋平介氏の邸宅です。

現在では「甲南漬」の資料館と甲南漬を扱った飲食店が同居しています。内部はこの時代によく見られるもので、丸型のステンドグラスが印象的な配置で、全体的にはモダンな仕上がりとなっています。(下写真,一階内部)



建物本体は、ドイツやオランダのモダン建築見られた放物線アーチを塔部に組み合わせたのが特徴の建物です。この建物を設計した清水栄二は神戸市営繕課からフリーになった人物で、この建物の近くに建つ「御影公会堂」(下写真)も彼の作品です。


神戸市立御影公会堂 

竣工 昭和8年 所在地 神戸市東灘区御影石町4-4-1 設計 清水栄二 



これは私の邪推ですが、この邸宅の完成を観て、施主であり、この地域の有力者であったであろう高嶋平介が建物の出来映えに感動し、彼の推薦で、清水が公会堂の設計者になったのではないか。ただこのような経緯での建物設計は良くある事だっただろうし、いい仕事をする人だという事で推薦されたのだから、何の問題もない訳で、私の邪推が本当に不粋であっただけでした。

その証拠に「御影公会堂」は現在でも、現役で街の顔として国道二号線沿いにたくましく建っていて、最近では関西モダン建築20選にも選出された歴史的建築になりました。

ただファサードの老朽化が目立つので、そろそろ大規模な補修は必要かと思います。


一方でこの高嶋邸は資料館兼店鋪として日々使用されているので、手入れが行き届いていて、無料で見学できるのには満足ものですが、2階部が公開されていないので、邸宅すべてを感じる事が出来ないのは残念です。

1995年に発生した「阪神、淡路大震災」でこの建物の周りにあった「甲南漬」の関連施設は全壊の被害を受け、かつての高嶋商店の歴史を伝える建物はこの邸宅だけになってしまいました。


竣工 昭和6年 所在地 神戸市東灘区御影塚町4-4-7

設計 清水栄二 施工 不祥

構造 鉄筋コンクリート造2階建

※公開10時〜17時 12月30日〜1月5日までは休館 無料






山邑太左衛門別邸:現、淀川製鋼所迎賓館




この建物は日本に唯一残るフランク・ロイド・ライト(1867-1959)住宅作品です。


F.Lライトといえば、二十世紀の三大建築家(ミ−ス・ファンデル・
ローエ、ル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライト)と世界的に称されている建築家です。

日本でのライトの代表作は東京日比谷にあった「帝国ホテル」旧館です。

そもそも彼は帝国ホテルを設計する為に来日したのですが。その時期はアメリカでは大恐慌の影響で彼ほどの人物でも仕事がほとんどない状態でした。その為、彼も日本に長期滞在する事となり、日本で携わった10年ほどの期間に12件(住宅6件)の作品を残しました。

この建物本体は、灘の酒造家、山邑太左衛門氏の別邸として建設され始めたのですが、厳密にいうと着工時にはライトは日本から去っていて、日本に残した弟子の遠藤新、南信らによって建設が引き継がれました。

外装は帝国ホテルのように幾何学装飾を施した大谷石を印象的に配しています。外装と同様内装も見どころで、直線を組み合わせた幾何学的な文様の窓と先ほどの大谷石の柱が各部屋に配置されています。

特に建物の中央部の和室は、従来の和室にライト装飾が散りばめられ、独自の世界が広がっています。

この和室にはこの建物の修復工事を伝えるビデオが流され、入場者は部屋にくつろぎながら見る事ができるのですが、この不思議な和室は特に違和感なく私を落ち着かせてくれました。(下写真、各部屋内部)

外国人建築家に和室というものを設計してもらうとこういうものが出来るんだなという事と、これこそ折衷様式の真骨頂であることを私に気付かせてくれるものでした。





戦後は淀川製鋼所の社長であった宇田耕一氏が買い取り、同社の迎賓館として使用される事となりました。

下世話な話ですが、この建物をヨドコウはいくらで買い取ったのでしょう。

この建物を世界的建築家の作品ではなく、一件の不動産物件として考えたなら、建築年数からも老朽化が進んでいたこともあって資産価値はゼロに近いものだったのかもしれません。だとしても戦後の混乱期に解体されていたかも知れないこの建物をよく買い取っていただいたと、宇田氏には拍手を送りたいです。

そういう経緯で残った甲斐があって、昭和49年に鉄筋コンクリート造の建物として初めて「重要文化財」の指定を受けました。

その後、昭和60年から3年間の本格的な修復工事が行われ、リニューアルされましたが、平成7年の「阪神大震災」でも被害を受けたため、再び3年間の修復工事がなされました。


竣工 大正13年、昭和63年(改修)平成10年(改修) 

所在地 兵庫県芦屋市山手町3-10

基本設計 Frank Lloyd Wright  実施設計 遠藤新、南信 

施工 女良工務店

構造 鉄筋コンクリート造4階建

敷地面積 4700平方メートル 建築面積 566.6平方メートル

DOCOMOMO選定No 003

水、土、日曜日10時〜16時に一般公開(500円)



 






平賀義美邸




次のお宅の主の平賀義美氏(1857-1943)は日本で初めて「工学博士」となった人物です。

彼は化学者でもあり、大会社の社長にもなり、このような邸宅に住む事も出来た人物なのです。

この時代に活躍した人の伝記をひも解くと、「元の〜藩の子息で」「彼の父親の〜は男爵で」「親の莫大な遺産を相続した〜は、その金で〜年間欧州に外遊し」というフレーズに巡り合いますが、平賀はそういう恵まれた環境で幼少期を過ごしたのではなく、寧ろその逆のものでした。ただ彼は並外れた頭脳を持っていた事と、地元の福岡の藩がそういう頭脳を欲しがっていたというタイミングの波にうまく乗る事となり、藩の援助で東大に行かせてもらい、そこからの縁で卒業後は英国に留学までさせてもらいました。

加えて彼が研究していたテーマが良かった、「科学染料による染色法」

この技術を習得し、帰国した彼には好景気に湧く日本の織物業界からのからの講習の要請が殺到し、全国を行脚しているうちにいつしか彼は「大阪織物会社」の社長になっていました。

その社長時代に川西の猪名川沿いに広大な敷地を購入し、この建物を建てました。

建物本体は、彼が慣れ親しんでいた欧州の邸宅スタイルで、外壁は小石の洗い出し、基礎には御影石を敷き、スレート葺きの屋根の平屋建です。屋根の角度が鋭角な所にこの時代の洋館らしさが発揮されています。

建物内部は、この時期の洋館によく見られる贅沢な仕様ですが、装飾は決して派手でなく、印象としては木材の良さを存分に活かし、大切にした感じの仕上げという感じでしょうか。ですから派手さには欠けるし、張り切って邸宅を建てましたという嫌味な主張が全く無い、本物の洋館の内装に仕上がったのではと私は思います。




ここまで書いて何なんですが、この邸宅は平成二年に川西郷土館に移築されたもので、この館に元からある旧平安邸(国登録有形文化財)の横に敷設されたものです。平安邸が純和風建築なだけに、この洋館とのコントラストはなかなかのものです。

事実、この洋館が元あった敷地には、隣に和館が敷設されていて、平賀の子供達はそちらで生活をし、平賀夫妻は住み慣れていた洋館で生活したそうです。ですからこの郷土館の配置はあながち間違いではありません。

この敷地は製錬所跡で後ろに山があって、建物がないので、昔からここにあったようにこの洋館は鎮座しています。

この施設は、300円の入館料で楽しめるのですが、私が訪れた時は観覧者は私一人で、この洋館を借り切ったような気分でシャッターを切りまくりました。(二時間近く滞在したのですが、帰りがけに係りの人に「もうお帰りですか?」と声を掛けられました。)

貸し切り状態で部屋の隅々まで見て思ったのは、細かい所にまで丁寧な仕事が施されているは言うまでもない事ですが、掃除が行き届きすぎて良く滑るというのと、木造は寒いというのを改めて実感しました。(私が訪れたのは一月下旬)平賀夫妻が住んでいた頃、毎年冬になると暖炉はフル稼動だったのでしょう。


竣工
 大正7年 所在地 兵庫県川西市下財町4-1(川西郷土館)

設計 Kishoh-Matsumoto 施工 鴻池組

構造 木造平屋建

※ 開館時間 10時〜16時30分 休館日 月曜日、年末年始 入館料 一般300円


 





谷口房蔵別邸:現、田尻歴史館




次のお宅は、田尻町が生んだ大事業家「大阪合同紡績株式会社」の社長であった谷口房蔵氏の別邸です。

この建物は、大阪ガスビルを設計した安井武雄が手掛けた、現存するのが珍しい住宅作品です。

建物の外観はほとんど装飾がなく、ベージュのレンガとグリーンの屋根のコントラストが美しく、それでいて重厚感のあるものとなっています。特に正面玄関の破風的な役割の三角ペディメントが印象的です。

この建物は、外観よりも内部が圧巻で、アール・ヌーボー様式に基づき、あらゆる場所にステンドグラスが配置されています。ステンドグラスだらけで、うるさい感じがすると思ったらそうでもなく、配置する場所が計算され尽くしているため、一枚一枚存在感をしっかりと示しています。グラスの美しさ同様、使用されている材木も一級品であることが一目で分かります。

 
 



この別宅は、別の資料によるとほとんど谷口氏が使用する事はなかったのですが、彼の住民票はこの家で登録がなされており、彼の莫大な収入から発生する多大な所得税は田尻町に入り、加えて彼は、田尻町に「吉見紡績」という会社を設立し、地元の人達を多数雇用すると同時に、その会社から発生する法人税も田尻町に入るという仕組みになっていて、彼はこのスタイルで故郷に錦を飾り、大変田尻町に貢献したそうです。

この時代、「故郷に錦を飾る」というのは、まず母校の小学校に「二宮金次郎像」を寄贈し、その後母校の建物の改修費を寄付するというのが一般的だというのを何かの資料で見かけた事があるのですが、そのレベルをはるかに超えた錦を谷口は飾りました。

本来このような邸宅の二次使用はミニ美術館であるとか、オーナーが変わって公開不可というものが多い中、田尻町は先の経緯から、この建物を町の歴史のシンボルとし、大切な財産と解釈して、建物所得後、すぐに登録文化財の手続に入ると同時に公開の手筈を整えました。

そして現在では、予約をすると誰でも無料で内部を思う存分見学できるというのは、建物好きにとってはこんなに嬉しい事はありません。私も今までたくさんの建物を見物しに伺いましたが、これほど満たされた気分になったのは初めてでした。

帰宅し、頂いたパンフレットを見ていると、公開されている部屋の一部がイベント会場として申し込みをすれば一時間1,500円で利用できるとのことでした。それを読んでいたら「誕生日パーティー」を開きたい衝動にかられました。ただ私の住む北摂からは少し距離があるのが難点ですが。


竣工
 大正12年 所在地 大阪府泉南郡田尻町大字吉見1101-1

設計 安井武雄 構造 煉瓦造り、木造2階建

敷地面積 3,856平方メートル 延床面積 739平方メートル

※内部公開 10時〜17時 休館日 水曜日、木曜日

見学予約先 田尻歴史館 0724-65-0045


 


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