[PR]100万円が無料で当たる!:今すぐ応募して現金を当てよう!

 

 

八百ハ橋

( beatiful bridges in Osaka)

 

 

古くから大阪は、「江戸の八百八町」に対して「八百八橋」と言われており、実際、大正14年には1629本もの橋が大阪市に管理されていました。現在では市内中心部を流れていた川のほとんどが埋め立てられ、橋の数も激減しました。このページでは歴史的名橋紹介したいと思います。                    

(写真上は水晶橋南側アプローチ)

 

 



すいしょうばし

 




旧名称は堂島川可動堰。

この橋はこの場所より下流域の浄化を目的に架けられました。他の可動堰との連動で、水質改善にはとても効果があったそうですが、戦後20年近く運転が止められました。昭和41年から堰の運転が再開され、昭和57年の改装後からは堰から橋に名称が改められ、橋面はアスファルトから花崗岩になり、橋にはベンチが用意され遊歩道としての機能を増しています。

この水晶橋という名前は、欄干に設置されたランタンが多角形のガラス張りで、火を灯すと水晶のように美しく輝いたということからこの呼び名になったそうです。

私も何度かこの橋を渡ったことがありますが、人を渡すという橋梁本来の役割より、この橋の南手前に大阪府立中之島図書館、大阪市中央公会堂、旧日本銀行大阪支店が広がる、中之島の最高の ビューポイントを提供している役割のほうが大きい橋だと思いました。ただ阪神高速が景観上邪魔ですね

夜はライトアップもされ幻想的な風景を演出しています。

 


竣工
 昭和4年(1929) 昭和57年(1982)改装 所在地 大阪市北区西天満2〜北区中之島1 

管理者 大阪市 設計 大阪市土木部 、伊藤正文(意匠) 

施工 銭高組 構造 鉄筋コンクリート造 形式 鉄骨アーチ

径数 6 最大径間長 15.2m 橋長 66.57m 幅員 9.09m  

 


 

 


なにわばし

 




現在も中之島の東側を北へ走る堺筋に架かる橋です。

大正4年市電事業の一環としてこの地に架けられました。それ以前の難波橋は現在の位置より少し西に架かる幕府管理の公儀橋でした。完成したこの新しい難波橋は土佐堀川、堂島川を一本で渡る橋で橋の中程東側には中之島公園に降りるルネッサンス風の大階段を配し、公園の緑地と橋の意匠が心地よい調和を生んでいます。



南北の橋詰に鎮座する獅子(ライオン)の石像は
彫刻家天岡均一の作品で、花崗岩製で高さ3.5m、重さ約18トンもある重厚なものです。

なぜ獅子の像が設置されたのかで街にはいろいろな説が流れ、そのなかでも代表的なのものは、以下のものです。

  • パリのヌフ橋を模倣した。
  • この橋から左右16本の橋が見渡せたので、獅子×4頭で4×4=16と九九から来たもの。
  • この年オープンした天王寺動物園にライオンがやってきたから。
  • 当時の大阪市庁舎の内部に設置されたライオン面像にあやかって大阪の強さとたくましさをアピールするため(最有力説)



どの説が正しいかは現在でも不明ですが、いずれにしても街の人達がこの橋に注目していたことがうかがえます。

 


竣工 
大正4年(1915), 昭和50年(1975)[改装] 

所在地 大阪市北区西天満1〜東区(現 中央区)北浜1 管理者 大阪市 

設計 大阪市電気鉄道部技術課、宗兵衛 施工 大林組 

構造 鉄鋼及鉄筋コンクリート造 橋種 連続合成桁RCアーチ

最大径間長 24.4m 橋長 189.65m 幅員 21.80m 径数 10

 

 

 


    

 

 




しんさいばし

 

 




つい先日まで2代目(明治以降。それ以前は何度掛け変えられたか定かではないので)心斎橋は、ソニータワー前に架かる歩道橋として活躍していましたが、平成9年、クリスタ長堀の完成とともに一部の高欄を残して撤去されました。

初代の心斎橋は明治6年にドイツからの輸入資材を使って完成しました。大阪で2番目の鉄橋で、橋脚を設けないアーチ式トラスで大変豪壮なデザインでした。しかし橋の幅が狭いことには商店街からはクレームがつきました。

明治42年、次の2代目に替わるまでの36年間使用されました。

その後橋梁部は西区の境川運河→西淀川区の大和田川、そして昭和48年、鶴見区の西三荘用水路に移転され、現在は平成2年に開催された「国際花と緑の博覧会」の会場だった鶴見緑地公園内の橋としていまでも活躍しています。                           

それまでの移転で名前が4回替わりました

  「心斎橋」→「境川橋」→「新千船橋」→「すずかけ橋」→「緑地西橋」

130才を超えてしまいました。

写真は鶴見緑地にある初代心斎橋です。弓形トラスの部分が使用されています。

 


竣工
 明治6年(1874) 所在地 大阪市鶴見区緑地公園内 設計 不祥 施工 不祥

橋長 36.7m 幅員 3.9m 橋種 鉄製弓形トラス

 


 

 

この後、架けられた2代目は大阪で最初の純様式スタイルで愛媛県産の花崗岩を使用し、皇居二重橋と同じ眼鏡橋です。欄干には4基ずつ鉄柱のガス灯が設置され、当時の最新の流行を取り入れています。

この工事を請け負った小西荘次郎は、この橋の建築に凝りに凝って大島産の御影石を注文し彫刻、しかし予算が大幅にオーバー。建築費の出資者から総スカンを食らい、彼が金策をするはめとなって、店を処分までしてお金を作りましたがそれでも足らず、とうとう逃げてしまい行方不明となりました。仕方なくその後の工事は大阪府が請け負うこととなりましたが、彼の職人としてのこだわりが仇となって帰ってきた、ちょっと切ないエピソードですね。

もう一つエピソードを紹介します。

この橋が完成し、渡り初めの日、橋の両詰めから一家族に3組の夫婦が揃った家の人達を渡り初めの要員として選ばれました。南詰めからは貴金属店の木下家、北詰めからは足袋問屋の亀岡家が選ばれ、渡り初め当日明治42年11月23日午前10時、彼等家族を先頭に南北に渡り合いました。ひとつ屋根の下に3世代の夫婦が同居する家というのは核家族化の進んだ現在となっては珍しくなりましたね、特に都会では。

昭和37年に下を流れる長堀川埋め立てに伴い、橋としての役割を終え撤去、解体されましたが、その2年後の昭和39年11月23日、地元の人達の保存の要請に答え、橋の高欄部がほぼ同じ位置に出来た歩道橋の高欄として生まれ変わりました。そしてその後、先に挙げたクリスタ長堀完成まで、夜にはガス灯に火を入れながら使用されました。

現在この歩道橋のあった周辺には「GIANNI VERSACE」「CHANEL」「HERMES」「Cartier」「LUIS VITTON」などのヨーロッパの高級ブランドのショップが進出しています。それらの店の宣伝をするつもりはありませんが、この歩道橋が残っているだけで、この周辺の景観がヨーロッパの街角になっていたんじゃないかなと、この辺りを歩く度に思います。

下写真は心斎橋のあった場所の現在の眺め。左 全景、右 最後まで残った欄干部


 


この心斎橋の名前の由来ですが、1622年この地に初めて橋が架けられた時の出資者、
岡田心斎の名を取ったとされています。

 


竣工
 明治42年(1909) 撤去 昭和37年(1962) (昭和39年陸橋に改修) 

所在地 大阪市南区(現 中央区)東心斎橋1〜東区(現 中央区)南船場2

設計 大阪府土木部、野口孫市(意匠) 施工 小西荘次郎、大阪府土木部

橋長 42.0m 幅員 6.0m 径数 3 形式 石造アーチ

 


 

 

  

 
おほえばしよどやばし

 




タイトルでは2本の橋ですが御堂筋を北側から大江橋、淀屋橋と連続して架かる両橋は同時に開通し、同一設計者による同じ意匠の橋です。

現在でも大阪市民から最も魅力ある橋としてあげられるこの両橋、その理由とすれば橋の意匠の美しさはもちろんですが、それに加えて

  • 橋からの眺め(中州である中之島からの堂島川、土佐堀川の眺望)
  • 周りの建築物(西に旧日銀大阪支店、東に中央公会堂、大阪府立中之島図書館)
  • 高い知名度(大阪市内の大動脈、御堂筋に架かるため) 

    これらのハーモニーがこの橋の魅力として人に訴えかけると思います。

大正13年、この橋は橋梁設計の分野では珍しい一般公募によるコンペでデザインが決められる事となりました。コンペ開催の理由としては、それまでの橋梁設計は橋梁技術者が設計を担当していたので、どうしても構造中心の設計になっていました。このことはデザインの画一化の恐れが発生してきます。それを防ぐためにデザインを一般の素人に募るという企画が持ち上がったそうです。実際、応募作品の中には玄人が考えないようなユニークな意匠が含まれていたようで、専門家にとっては良き資料収集の場となり、後の橋梁設計に役立てられたそうです。

(このコンペには審査員として、武田五一、宗兵衛、片岡安などの当時の一流建築家が参加していました)

そして応募総数62点の中から大谷瀧雄氏の作品が選ばれました。

ちなみに一等賞金は1000円で現在のレートで約800万円相当です。結構高額賞金です。


この大谷氏の作品に対する審査員の総評は


「様式は南欧中世紀の気分ある近代式を用い、その根底においては東洋趣味が脈々と流れ、全体の形極めて端正剛健、その形状の比例最も洗練を経たり。その主材料たるコンクリートを様式の上に表現せんとする作者苦心の跡、最も注意すべし。ただし、柱塔の飾壷上に火炎の形付したるは少しく蛇足の感あるを惜しむべしとす。製図の技極めて巧妙なり」


この評価文のワンフレーズ「東洋趣味が脈々と流れ」というのが時代を物語っています。

この時期の建物には東洋的で日本的なものが国家的背景から要求されるようになり、洋風の建物に瓦屋根を載せる「帝冠様式」がもてはやされようとする時期でした。ですから、役所主催のこのコンペでアールデコやアールヌーボーの装飾に飾られたものはまず当選しませんでしたし、コンペの応募要項にも「東洋的である事」というのが記載されていたりもしました。

それから70年余り経った今、この橋をいくら眺めても東洋的源泉は発見できません。

多分このコンペの審査員の先生方もこの意匠が東洋的でない事は百も承知だったはずです。でもこの図面が純粋に良い意匠だから一等賞を与えたという事でしょう。もちろんそれが設計競技の正しい形なのですが、それでは役所が納得しないので先のフレーズを加えたのでしょう。

仮に役所の人間が現在の私のように「どう見ても西洋的だ」という突っ込みにも耐えれるように、先生方は「その根底においては」というフレーズを文頭に加えました。文章テクニックの勝利です。あっぱれ。

このコンペを受けて昭和5年に着工され、昭和10年に竣工しました。つまり竣工まで丸5年も掛かったわけです。それだけ仕事が丁寧だったのか、当時の技術では(建設機械、資材運搬等)これぐらい掛かるのは当たり前だったのか。私は前者が6割で後者が4割だと思いますが。

しかし完成した橋では上の選者評にもあるようにこの原案の橋脚上の橋頭堡(石造塔)は却下され、右写真の橋脚バルコニーに変更されました。同じく右写真の右奥に写るのは昭和10年完成の石原ビルです。


左写真は淀屋橋、右は大江橋。

   

  
竣工 昭和10年(1935)

所在地 大阪市北区西天満2〜北区中之島1 (大江橋)

     大阪市北区中之島1〜東区(現 中央区)北浜 (淀屋橋)

  基本意匠設計 大谷瀧雄(コンペ1等作品)  実施設計 大阪市土木部、武田五一/元良勲(意匠)

  施工 大林組 管理者 国土公通省 (旧建設省近畿建設局) 構造 鉄筋コンクリート

  橋長 81.5m(大江橋) 54.5m(淀屋橋) 幅員 36.5m(大江橋)  37.2m (淀屋橋)

  最大径間長 28.0m (大江橋)  30.0m (淀屋橋) 径数 4(大江橋)3(淀屋橋) 

橋種 RCアーチ

  

  
  

                  

 




にしきばし 

 

 




先に挙げた水晶橋と同じく河川の浄化を目的とした可動堰で、水晶橋の西側に架けられ、旧称は
土佐堀川可動堰です。戦後しばらくは運転を休止し、一時的に再開もされましたが昭和53年東横堀川に水門が完成されたことを機に完全に運転休止されました。そして昭和60年美装化整備に伴って錦橋と名称が新しくなりました。

いまでは、中之島周辺の建築と景観を鑑賞するためのような橋です。

美装、整備された点は橋中央部にはキリシマツツジと季節の花が植えられた植樹桝が設置されました。加えてその桝は座ってくつろげるように作られ、桝壁面には江戸後期から明治初期の橋を描いた錦絵をタイルに焼きつけられたものが飾られ、橋梁ギャラリーとなっています。この錦絵から今の橋名になりました。

展示されている作品は

  • 「浪花大湊一覧」・五雲亭秀作
  • 「浪花百景」・長谷川貞信
  • 「浪花繁栄東掘鉄橋図」・松光斉長栄
  • 「心斎橋真写之図」・長谷川小信

 

下写真左は錦橋全景、右は橋上、手前の錦絵は「心斎橋真写之図」

 


にしきばし(旧土佐堀川可動堰)

竣工 昭和6年(1931)(昭和60年(1985)改装) 所在地 大阪市北区中之島2〜西区江戸堀1 

管理者 大阪市 設計 大阪市土木部  施工 不祥 構造 鉄筋コンクリート造 

最大径間長 18.0m 橋長 51.5m 幅員 10.5m 径間数 4 

橋種 RCアーチ

 


 

 

 

   

 




さくらのみやばし(ぎんばし)

 

 




通称
「銀橋」と呼ばれるこの橋は、大阪市の第一次都市計画事業によって開通した天満蒲生線(現国道1号線)の橋梁として架けられました。施工期間は2年4ヶ月、総工費は129万円でした。同時期に再建された大阪城が47万円だったことを考えると、破格の橋だということがわかります。橋の西詰には大阪で最も古い洋館「泉布観」と大阪造幣局&造幣博物館があり、毎年春にはここで行われる桜の通り抜けで多くの人で賑わいます。

橋本体は、主橋梁部は支間104mで戦前では日本最大のアーチ橋でした。この主橋梁部の上部工は3ヒンジアーチで地盤が悪いこの当たりでの支点沈下を予測してこの方式が採用されました。

写真にも少し写っていますが、橋の両詰めには河岸の公園へ降りる階段を持ったロマネスク様式の橋頭堡(写真右の右手前)があり、これが橋全体のデザインの引き締め効果にもなっていると思います。

この橋の下の大川を走る船はこの橋の少し北上した帝国ホテル大阪前から出る大阪市内観光船「アクアライナー」です。帝国ホテル大阪と大阪アメニティーパーク(OAP)が完成してからはこの辺りの河岸公園の整備がなされたので、この橋も公園散策のひとつの風景になりました。

この辺りは阪神高速も走っておらず川沿いの景色も良いのですが、この橋の東詰北側には川沿いにラブホテルが軒を列ねています、これが現在の都市景観の現実なのでしょうか。

 


竣工 昭和5年(1930) 所在地 大阪市北区天満橋1〜都島区中野町1 

設計 大阪市土木部、武田五一(意匠指導)施工 大林組 

管理 国土交通省(旧建設省近畿建設局)構造 鉄骨造 橋種 下路式3ヒンジ鋼アーチ

橋長 187.8m 幅員 22.0m、23.5m 径数 6 最大径間長 104.0m

 


 




えびすばし 




えびすばし(戎橋)というよりも大阪の人間にとっては「引っかけ橋」。それ以外の地域の人たちにとっては二十年に一度ぐらいに優勝するある野球球団のファン達が一斉にダイビングする橋として有名な橋です。



しかし残念ながらこの橋も平成16年秋をもって取り壊しとなりました。



数年後に新しい橋となるそうです。そのデザインは、美しさというよりはダイビングをしないようにという安全第一の意匠です。

そもそもこの橋は江戸時代、町人がよって架けられ、その後の維持管理もなされていた「町橋」でした。

写真のものは大正14年、第一次都市計画事業による橋梁耐震化事業によって架け替えられました。本体のア−チ部分と高欄部に花崗石による化粧が施され、高欄の欄間には青銅製の飾り窓がはめ込まれました。総工費は当時の金額で5万円でした。

鉄筋コンクリートのアーチが川をひと跨ぎする意匠はシンプルながらも印象的な物となっています。

今となっては旧橋となる写真のものはこのページで紹介した現存橋では最も古い物になります。デザインとしては極シンプルなものです。というよりは周りに建つ建物があまりにも存在感をアピールする物ばかりなので橋の存在感が極めて薄いようにも思えます。

この橋には一度名前を変更させられたという過去があります。時は明治維新の前の慶応3年、「戎」という単語が外国人を蔑んでいるという理由から永成橋となりました。

しかし永年使用してきた名前が変更となり、却って人々に分かりにくさを与えてしまったので、明治3年「戎橋」に名称が戻されました。それまでは配慮の対象にはならなかったであろう外国人に配慮したという理由から幕末から明治の新時代に移っていく様子がすこし伺える逸話だと思います。


竣工 大正14年 所在地 大阪市中央区道頓堀1〜心斎橋筋1

設計 大阪市土木部(意匠指導 平松英彦) 施工 鴻池組 

橋種 RCアーチ造 管理 大阪市 

橋長 36.1m 幅員 10.9m 径数 1 最大径間長 36.1m


 

 

 


<<「旅のしおり」に戻る


次の探訪も橋です>>



[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ