
下写真の昭和9年の梅田駅は3本しかホームがなく、この時期はまだ京阪電車の路線であった千里線.京都線は乗り入れてはいません。駅の場所も現在より約300m南にあり、今の阪急百貨店と阪急32番街の間のアーチが立ち並ぶコンコースになります。
駅と百貨店の入り口であった場所は、現在の阪急百貨店の南側の入口になり、今は百貨店直営のタバコ屋があります。タバコ屋上方の壁とその向いには 伊藤忠太が手掛けた対の巨大モザイク壁画があります。(追記、2005年9月解体)
この百貨店と駅との共存は、ターミナルデパートの走りです。
阪急沿線に住む通勤者は仕事帰りに、同じく沿線住民で余暇で梅田やその近郊に来た人は遊びの帰りに阪急百貨店に寄り、買い物をし、大食堂で洋食を食べ、また阪急電車に乗って、阪急が開拓し作り上げた、豊中や池田、神戸岡本の新興住宅地へと帰ってきます。もちろん総ての電車利用者がこのケースに当てはまるとはいいませんが、該当客が半数もいれば、阪急百貨店は効率的に高い売り上げが確保されていたはずです。当時の平日一日の来客数は10万人と他のデパートに比べて圧倒的に群を抜いていました。当時の阪急百貨店は他の百貨店と違い、高級衣料、呉服を扱わず、生活用品に重点を置いた品揃えにしていたため、一般庶民が気軽に訪れることのできるカジュアル百貨店と位置付けられていました。
その結果のひとつとして6 ,7階の大食堂はいつも大賑わいでした。このことから徹底した合理化を計り、調理は完全分業制にして多くの料理をより早く客の元に持っていくことを心掛け、精算は前金のチケット制を導入。
給仕には「いらっしゃいませ」「何にしましょうか?」「・・・(注文品)でございますか?」「少しお待ち願います」「(空いた皿を)下げさせてもらってよろしいでしょうか?」「毎度ありがとうございます」これ以外の言葉は客には使わないようにしました。 今で言うファーストフード店のマニュアル接客の走りのようなものでした。
ただこの制度には時折弊害も生じ、ある時、客が「顔を洗いたいのだけど」と給仕に言うと彼女は返答の言葉が見つからず絶句したそうです。
阪急宝塚線、終着駅の宝塚に宝塚新温泉、少女歌劇(現宝塚歌劇団)、宝塚ホテル、ルナパークという名の遊園地をオープンしていたので、百貨店に来るお客を宝塚方面の電車に乗せようとします。
つまり阪急は電車の乗客には百貨店利用を、百貨店利用客には関連施設を使って自社の電車利用を巧みに促すわけです。
この戦略がターミナルデパートとして力を十分発揮し、現在の巨大な阪急グループを作る礎になった考えられます。
現在もそうですが、阪急沿線に住む人達は知らぬ間に阪急グループの運営するもの(電車、バス、タクシー、コンビニ、映画館、スーパーマーケット等)を利用し、阪急グループに貢献していることのなります。ちなみに私もそうです。
現在では、ほとんどの私鉄会社がこのような形のビジネスモデルを適用していますが、今風にいえばこのビジネス特許は阪急のものだといっても過言ではないでしょう。
写真左は昭和12年頃の阪急梅田ターミナルデパート(阪急ビルディング) 写真右は2003年の阪急ターミナルデパート
阪急ビルディング

この駅舎が完成するまで阪急神戸線は、現在では幻の上筒井駅(現、王子公園駅付近)が終点でした。昭和11年に三宮までの乗り入れが完了し、それと同時にこの駅舎が完成、運用がはじまりました。
この駅舎は、造りがモダンなことに加えて映画館やレストラン等が入った複合施設になっていたので、完成当初は電車に乗る用もないのに駅に来る人が相当数いたそうです。
この駅が完成するまでの神戸の中心といえば、湊川神社と多数の映画館、芝居小屋で賑わった新開地、運行が開始されたばかりの超特急「燕」の西の終着駅である国鉄神戸駅近辺、すずらん灯も華やかで異国情緒漂う元町でしたが、この駅の完成後、人の流れは徐々にこの三宮へと移行していったようです。
しかし残念ながらこの駅舎は、1995年の阪神大震災で倒壊してしまいましたが、それまでほとんど形を変えることなく使用されていただけに大変残念です。
前項の阪急ビルディング、次に挙げる天神橋筋駅とこの駅でも共通することですが、建物の1.2階部分をアーチで装飾するというのはこの当時の駅舎デザインの流行なのでしょう。
写真にあるアーチ型の進入路と頂上にそびえる塔がとても印象的な建物でした。
阪急電鉄三宮駅舎
竣工、開設 昭和11年4月1日 所在地 神戸市中央区加納町4-2-1 設計 阿部美樹志/阿部建築事務所 施工 竹中工務店
写真左から、進入路、建物全景

この建物は、現在は地下駅の阪急&地下鉄堺筋線、天神橋筋6丁目駅の北側出口を地上に上がったところで「大阪市立住まいの情報センター」の北向かいにあたります。現在では、阪急電車と大阪地下鉄堺筋線が乗り入れる駅となっていますが、この当時(大正15年)はこの駅は新京阪電鉄(現 京阪電鉄)の営業路線で、当時の阪急電車の営業区間とは直接繋がってはいませんでした。
当時この駅から路線(天神橋ー淡路間)は日本初の高架運転の営業でした。
建物本体は装飾はほとんど施されず、大小のアーチを縦に配列したデザインが全体のシルエットを作り上げています。もともと鉄道省の設計技師だった渡辺節だけに得意の駅舎設計だったと思われます。特に2階部の3連アーチの窓が建物のアクセントとなってると共に、ヨーロッパの駅舎の趣を感じさせます。
今はこの建物もなく、阪急直営のスーパーマーケットと銀行の入った建物に様変わりしましたが、その建物内部に当時の階段や高架ホームの跡がわずかに残っています。
当時の乗客はこの階段(下写真)を登ってホームへと向かいました、現代では極当たり前となった高架ホーム、この駅が完成した頃の日本にはここだけにしかなく、乗客たちは、物珍しさも手伝って「2階から電車が出るなんて宙に浮いたような気がして面白いけど、ちょっと恐いなー」なんてことを言いながら登っていたのでしょうか。
後の昭和8年6月17日、世間を騒がせた天六ゴーストップ事件が起こった天六交差点はこの下写真の左手すぐです。
