大阪なんばから和歌山、高野山、関西空港への路線を持つ南海電車。老舗電鉄会社らしく、沿線にはいにしえの栄華を示す素敵な駅舎が残っています。ここでは現存する駅舎をいくつか紹介したいと思います。
なんば駅+高島屋大阪店
まずこのページのトップには南海電車の始発駅である、なんば駅に飾ってもらいます。この駅はターミナルビルとなっており、高島屋大阪店と同居する形をとっています。御堂筋の南詰にあるこの建物、この大阪のメインストリートの終点に相応しい壮大な建物で、今でもその威厳は薄れていません。大阪人の感覚からすれば、この建物は高島屋メインだと考えてしまうので、まずは高島屋の歴史から
高島屋は1831年、飯田新七が京都烏丸高辻で古着商を開いたことが始めとされ、明治31年に大阪に進出しました。当初は現在の位置ではなく心斎橋でした(現中央区東心斎橋2)。その後、堺筋の長堀橋(現中央区島之内1)に移転し、昭和7年現在の建物が完成したことにより百貨店の業務をそのビルに移しました。
この移転に関しては三越との激しい争奪戦がありましたが、高島屋は元大蔵大臣や大阪市議会議長を使って何とか南海電鉄との賃貸契約へとこぎつけました。高島屋は御堂筋北詰の阪急、南詰の高島屋という大きな存在感を是が非でも欲しかったようです。オープンしてからは日本初の全館冷暖房完備と生活用品を安値の10銭均一で販売する「10銭ストアー」を設け、話題となりました。今でいう100円ショップの走りですね。
当時、百貨店の必須であった食堂は2つ設けました。
そのうちのひとつ7階の「高島屋サロン」ここでは高級感を演出するために、卓と卓のピッチを広く取り、65人の収容人数に対して80人の給仕を付け、椅子に座ると上着を脱がせてくれ、タオル、エプロン、お茶を次々に持ってきます。現在の高級レストランですね。
メニューは毎日変更し、定食の他に凝った一品料理も用意されていました。しかしサービス同様に価格も割高で、30銭が相場のビーフステーキが1円、25銭が相場のカレーライスが50銭でした。このことが庶民の町「なんば」ではかえって仇となり、徐々に客は減少していきました。
一方、地下1階には600脚の椅子と230人の給仕を有したグリルを設け、こちらは50銭以下のメニューなので1日平均約1万人の人で賑わいました。
戦時中は幾度の爆撃にあいながらも完全倒壊は免れ、戦争が終わってすぐは、梅田の阪急前に立つと南にはこの高島屋しか見えなかったそうです。大阪の爆撃被害の壮絶さを伝えるエピソードです。
建物本体は写真でも分かるように14スパン連続するアーチ、その両脇にひかえるコリント式オーダーのピラスターがこの建物の顔です。設計者の久野節は元鉄道院の建築課長のためか、ヨーロッパの駅舎に見られる意匠だと思います。
彼は百貨店店鋪より駅舎(南海なんば駅)としてこの建物のデザインにウエイトを置いたいうことでしょう。つまりこの建物は大型百貨店がテナントに入ってる駅舎建築なのです。この逆であるデパートの建物に電車が入線してくるという発想の「阪急百貨店」とは相反するものだと私は考えています。
旧国鉄の都市駅舎でも門司港駅、東京駅、奈良駅、上野駅など素敵な建物が残っていますが、この建物も駅舎建築だと考えると先に挙げた駅舎を匹敵するすばらしい建物だと思います。有名百貨店が入った巨大な駅舎ということでは伊勢丹がテナントに入った現在のJR京都駅が同じスタイルでしょう。
しかしこの建物は、もはや駅舎には関係ないようで、駅本体はこの建物に入って3階まで一気に登るエスカレーターに乗り、事実上この建物の南に増設された新しいプラットフォームから電車に乗る事になってしまい、地下からも直通のエスカレーターでホームに向うことも可能になったので、事実上、建物を高島屋に占領されてしまいました。

諏訪ノ森駅
この駅を一目見る限りでは、歴史のある駅舎には見えませんが、壁面のステンドグラスを見ると、時代を感じます。今どき普通電車しか停車しない小さな駅にステンドグラスを駅の意匠に入れようとは、電鉄会社が考えるはずもありません。私は今こそ、そういうゆとりのようなものが、街の玄関口である駅舎の意匠には必要だと思います。
この駅は次に紹介する浜寺公園駅の一つ手前であり、このあたりがかつて海水浴客や行楽客で賑わった事もあり、凝った意匠になったと考えられます。この駅よりも大阪なんば寄りの玉出駅、岸里駅も同様のデザインがなされていたのですが、駅舎が高架工事完了後、移転となったので、静かに姿を消しました。
この地域は高架化の予定が当面なさそうなので、しばらくはこの駅舎が残っていく様です。
ちなみにこの駅舎は上り専用駅舎で下りの駅舎はこの建物より少し北側にあります。

この駅舎は昭和50年代まで設計者不明とされていましたが、建築探偵として有名な建築家の藤森照信氏によって、辰野、片岡建築事務所の設計であることが判明しました。いまでは南海電車のこじんまりとした駅になっていますが、この駅舎は今でも現役です。
駅を降りると、昔から別荘地として栄えた、いにしえの住宅が多数残っていて、当時の雰囲気をそのままのものにしています。
駅舎本体は、ピカレスク風のハーフティンバーの木骨造りで、骨組みをそのまま装飾模様として生かされているのが特徴です。壁には漆喰が用いられています。木材と漆喰の調和が美しく、全体的な洋風デザインと和風な材料の使用の コントラストが心地よい和洋折衷で当時の時流が出ていると思います。
明治39年、浜寺周辺に大阪一、東洋一の規模と唱われた浜寺海水浴場が開設されました。
夏の浜寺周辺は、毎日新聞が主催する水練学校あり、花火大会あり、一流料理旅館が数々あり、大浜少女歌劇の水上イベントありと一日の集客数40,000人の夏の一大レジャー施設になりました。
そんな最中、南海電車の電化完成と相前後してこの駅が完成しました。
この当時の現地の盛り上がりを南海電鉄がどのように受け止めたのかは分かりませんが、他の南海の駅より豪華になっていることと、南海直営の食堂、園遊場、ビアホールがあったことから南海電鉄がこの浜寺近辺に寄せる期待が感じられるのですが。
谷崎潤一郎の「卍」のクライマックスはこの海水浴場が舞台となります。
昭和23年浜寺公園一体はアメリカ軍に接収され「日本人立入禁止」の立て札と周りにはり巡らされた鉄条網のもと約10年間遊泳が出来ませんでした、そして晴れて昭和33年接収が解除になりましたが、昭和36年、このあたりが工業地域に変わるために海水浴場は閉鎖されました。
現在では近未来サイバーシティー風に様変わりした浜寺海水浴場跡を眺めると、かつてこの場所に多数の海水浴客が訪れていたいうことが幻のような感じがします。
竣工 1907年(明治40年) 所在地 大阪府堺市浜寺公園町2-188設計 辰野、片岡建築事務所 施工 大林組? 構造 木造平家造 ![]()
高師浜駅
この駅は南海本線の支線である南海高師浜線の終点駅です。といっても始発の羽衣駅から二駅しかない短い路線です。高師の浜と駅名では唱っていますが、この駅から海まではかなりの距離があります、ただ南海電鉄の歴史を参照すると、この支線が羽衣からの海水浴客だけを運ぶ為に敷かれたということなので、かつてはこの駅を出ると目の前に海が広がっていたのでしょう。今では全く想像すらできない風景になっていますが。
この駅も先の諏訪ノ森駅同様、設計者不明の建物です。駅舎玄関の裏手にステンドグラスを設置しているのは同じスタイルです。
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次に紹介する「蛸地蔵駅」も同じ様式の駅舎なのですが、この事からこの三つの駅は同じ設計者、設計チームだと考えるのが、妥当だと思います。南海電鉄営繕部のようなものがかつて存在したとするならば彼等でしょう。しかし「諏訪ノ森」駅は「近畿の駅百選」「国登録有形文化財」にも指定された建物なのに、この駅と「蛸地蔵」駅はノンタイトルなのには疑問を感じます。タイトルで建物の評価するのはどうかという意見もあるでしょうが、この時期に建った商業建築には何かしらのタイトルが保存の免罪符だと考えている私には、なにか称号を得ないといつのまにか解体されるのではという不安が消えません。
竣工 大正8年 所在地 大阪府高石市高師浜4-1設計 不祥 施工 不祥 構造 木造平屋造 ![]()
蛸地蔵駅
大阪府の南部「岸和田市」現在でも秋に行われる「だんじり祭り」は全国的に有名ですが、その祭りのメインストリートは南海岸和田駅周辺で岸和田城もすぐ近くにある岸和田の中心部です。その岸和田駅もかつてはネオルネッサンス様式の立派な駅舎でしたが、高架工事が完了し、駅舎も衣替えしてしまいました。
その新しい駅から南に一つ行ったのがこの「蛸地蔵」駅です。この滑稽な駅の名称は近くに建つ天性寺の御本尊の地蔵菩薩が地元に人達に「蛸地蔵」と呼ばれていた事が由来だそうです。
この駅でのステンドグラスは大変色使いが鮮やかで、白壁に映えて大変美しく、このページで紹介したステンドグラス駅舎の中では私はこの駅舎が一番好きです。
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先にも書きましたが、現在では決して乗降客も多い訳でもなく、各駅停車の列車しか止まらないこの駅を素敵なものにしたのは、かつてのこの辺りの繁栄を物語るものだと思いますが、昨今の大きな駅舎の意匠にこれほど素敵なものは見当たりません。現代の乗降客にとっては「駅」は単なる通過点でしかなく、電鉄会社には意匠よりも多数の乗降客をスムーズかつ安全に通す合理性が求められる時代になったのでしょう。このページで挙げた「ステンドグラス設置駅」はすべてが電車から降りてくる人に向ってステンドグラスが映るように設置してあります。これは疲れて帰宅した人達を癒し、この街を初めて訪れる人達を歓迎するといった効果を考えた南海電鉄のサービスだったのでしょう。
竣工 大正14年 所在地 大阪府岸和田市岸城町16-1設計 不祥 施工 不祥 構造 木造平屋造 ![]()
水間鉄道 水間駅
南海本線「貝塚」から水間寺のある「水間」まで営業運転をする「水間鉄道」この鉄道会社の歴史は古く、かつては蒸気機関車が走っていましたが、現在では参拝者の多い時期以外は乗降客も閑散としているローカル鉄道になってしまいました。
その終着駅である水間駅は多宝塔を模したと見られる駅舎で登録有形文化財、近畿の駅百選にも選定された建物です。
神社仏閣の最寄り駅にはそれらをモチーフにした駅舎がよく見られますが、建物からその地域が神社仏閣地域だという事を示すメタファーになっているもので、この建物もその典型的なものだと考えられます。
私が訪ねたのが平日だったこともあり、乗降客もまばらで、肝心の水間寺(下写真)の参拝客もほとんど皆無でした。昨今の交通手段の進歩と近郊旅行への気軽さから、かつては南大阪、大阪、和歌山から集まっていた参拝客も方々に散ってしまい、初詣でぐらいしか大勢の参拝客が集まらないというのが実情なのでしょう。このような事はこのお寺だけでなく、地方や郊外にある中規模寺院ではどこも抱えた問題だと思います。
昭和の初期にもそのような問題を解決しようとした動きがあり、「西国三十三ケ所」から漏れている近畿の中規模寺院が「新西国三十三ケ所」というのを制定し、このお寺は四番札所となりました。今再び、こういう大きな動きを仕掛けなければいけない時期なのかもしれません。寺院の本来の存在意義は観光客を集めることではありませんが、賑わっていた歴史を持つ寺院はその歴史を継承する意味でも参拝客で賑わせ、地元を盛り上げるというのも大きな存在意義だと思います。
お寺の参拝客の激変がすぐに乗降客数に跳ね返ってくる水間鉄道にとってもこれは死活問題だと思います。
竣工 大正15年 所在地 大阪府貝塚市水間260設計 不祥 施工 不祥 構造 鉄筋コンクリート平屋造 ![]()
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