
日本綿業倶楽部(綿業会館)
1997年、国の登録文化財に認定され、(追記、2003年には国指定重要文化財に認定)当面は解体など惨い最後を迎える心配がなくなった、この日本綿業倶楽部の建物。
現在でも大阪の綿業の中心であるこの船場の地ですが、周りの風景は大きく変わったようです。我々素人の耳にも昨今の服飾、繊維業界の不況は知らされる事実で、かつて、粋な旦那がポンと出資し、この会館を創建した当時の活況はないようですが、この会館がいつまでも残り、この地がこれからも大阪の繊維の中心地である事を伝えて行った欲しいものです。そして、ふたたびこの地が賑やかになった時に、その時代の建築のテクノロジーを集めた素敵な建物をこの建物の隣にでも創建されると、歴史が継承されたという確固たる物的証拠になるのではと思います。
そもそもこの建物は、先にも少し触れましたが、昭和3年に「日本の綿業の進歩発展を図るため」という岡常夫氏(当時東洋紡績専務取締役)の遺言で100万円の寄付を受け、関係業界からの醸出金50万円を加えた150万円を基金に綿業会館建設が決定されました。
同時期、大阪城天守閣の再建を望む市民から寄せられた寄付金も同じ150万円。その寄付金の内47万円で天守閣を再建したので、綿業会館の予算は大阪城天守閣3つ分です。ちなみに現在の金額だと60〜70億円になるそうです。
建物本体は明治以降の様式建築の集大成、ネオルネッサンス風にコロニアル風を加えた複合技。(下写真はルネッサンス風ロビー)
内部の各部屋はすべて異なる様式(下写真左から談話室はジャコビアンスタイル、特別室はクィーンアンスタイル、会議室はアンピールスタイル)で構成されています。![]()
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現在のレートで数十億円の予算を使いながらも、これだけ凝ったものを作るとやはり予算が段々切迫していきました。そこで設計者渡辺は、正面からは死角となる東側と北側の外壁タイルは化粧タイルの不合格品の裏側を使いました、大阪倶楽部のページでも書きましたが、こういうところに工夫を施さなければ予算内にまとめるというのは難しい事なのだと実感させられます。
先に挙げたすべて異なる内装スタイルには理由があり、渡辺氏によると「会員の好みに応じて好きな部屋で楽しんでもらい、(ひとつの様式による)不満がいくらかでも解消されると考えたからで、(中略)その結果こうした変った雑多なスタイルの会館が出来上がったわけである」という事です。意匠共に設備構造のほうも当時としては先端を行き、建物内部に太いダクトを通し、全館冷暖房完備とし、各部屋には「こんなところに」と思うようなところに通風口が設けられています。そのさり気なさは、意匠設計と設備設計の抜群のバランスを感じずにはいられません。建物の構造に関しては、昭和20年の「大阪大空襲」の際も建物の全窓に使用されたベルギー製の「ワイヤーガラス」が内部への延焼をカットし、2階部の窓が一枚割れた事によりカーテンを少し焼いただけで済みました。もちろん建物の倒壊などはなく、周りの建物がすべて燃えて無くなったあと、この地にポツんと建っていました。
この建物の設計の図面責任者であった村野藤吾はこの仕事のあと渡辺節建築事務所から独立し「村野建築事務所」設立。その後の活躍へとなります。彼が手掛けた最後の歴史様式の建物ともいえます。
竣工 昭和6年(1931)/昭和37年(1962)[増築 ] 所在地 大阪市中央区備後町2-5-8設計 渡辺節/渡辺節建築事務所 用途 倶楽部 延床面積 12,743平方メートル 構造 鉄筋鉄骨コンクリート7階、地下1階 ※毎月第4土曜日午後2時半より公開(事前予約制、500円)
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