京都大学の東、白川通を入った住宅街に突如現われるこの建物。大半の人たちは教会と思うであろうこの建物は研究施設で、現在では京都大学が使用しています。
元は外務省の管轄の研究機関で東京にも同じ施設がありました。
正式名称を「東方文化学院京都研究所」といい、アジア特に東アジアの文献などから研究進めていく学術研究が主な業務で、後の大東亞共栄圏計画の為の準備機関とも考えられます。
この意匠を設計を担当したのは、当時京大の営繕課長であった武田五一からの抜てきを受けた京大院生であった27才の東畑謙三です。
彼は当時、ル・コルビジェに傾倒していて、彼の作品のような様式建築から離脱したモダンな建物にしたかったようですが、この建物の設計を請け負った京都大学の意向は、同大学の文学部教授、後の京大総長、濱田耕作の発案で「スペイン修道院の形体で行く」というものでした。
この事が京都大学内で「白い巨塔」が展開されました。(以下の会話はダイジェスト版です)
京都大学某重鎮教授(以下、某教授)
「武田君、今回の文化研究所の件だが、わが校の総意として、京都の研究所の全体意匠はスペインにある修道院のような感じで行こうと思うのだが」
武田
「はい。では今回設計を任せております東畑のほうにもその旨伝えて相談した上で、御返事をさせていただきます。」
某教授
「東畑はうちの院生だろう、君が了承したなら、それに文句は言えんだろう」
武田
「・・・・はい。」
某教授
「そもそも東畑に任せるのではなく、君が陣頭指揮をとったほうがいいんじゃないのかね。」
武田
「おっしゃる通りですが、我が校の建築学科の力を内外に示すには、この辺で生徒に任せてみるというのが効果的だと思うのですが、もちろん私も出来る限りのバックアップはいたしますが。」
某教授
「確かに君の考えは、わが校の権威を内外に効率的にアピールする方法の一つだとは思うが、このプロジェクトは学校全体で進めている話なのだから、君達だけで独占的に事を運んでもらっては困るよ。」
武田
「もちろん承知しております。この計画には本校の教授方の貴重なお知恵を拝借しておりますので、それらの意見は無下にするつもりはございませんので。」
某教授
「まっ分かってもらえてるなら、それで結構だが。カッカカ━━━(゚∀゚)━━━(高笑い)」
同大学の重鎮の意向を素直に受けるのは簡単な事だが、教え子である東畑(同大学大学院生)には自由に設計して欲しいと思う武田五一(同大学営繕課課長)。しかし武田にも立場がある、重鎮に反旗を翻しては自分の今の地位は追いやられる。そうなれば自分も含めて同大学の建築科の今後が危うくなる。思案に明け暮れた後、武田は東畑を自邸に呼び、当時は入手困難とされていた欧州産の葡萄酒を酌み交わしながら話を切り出した。
武田「今回、君の初実作になるこの案件だが、文学部の浜田先生の発案が学校の総意となり、スパニッシュスタイルの意匠で行くことになった。君が本来設計したいものとは違うとは思うが、今回はこらえて欲しい。本来、君を自由な環境で設計させる土台作りが私の仕事なのだが、それが出来ずに申し訳ない。」
東畑
「いえ、先生、どうか頭を上げて下さい。私も学生ながらこんな大きな仕事を任せてもらえるのは大変幸運な事なのです。確かに様式で行くことには私も不本意ですが、そういう経緯なら私も本意、不本意は問いません。徹底的にスペイン修道院を研究して、この京都の地にそれを建ててみます。そして以後他学部の教授達に何も言わせんようにしますよ。」
武田
「東畑君!!」
東畑
「先生!!」
東畑の熱意は出来上がった建物に表れ、京都、北白川にスペインからそのまま移築したような建物が完成しました。(以上の寸劇はフィクションです)
私の率直な感想ですが、この施設を使用できる京大生がうらやましい。東方文化学院京都研究所:現、京都大学人文科学研究所東洋学文献センター
竣工 昭和5年 所在地 京都市左京区北白川東小倉町47 設計 東畑謙三、武田五一(設計顧問) 施工 大林組 構造 鉄筋コンクリート造平屋、2階建
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